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2010年6月 1日 (火)

日本国憲法第9条をソウルにて考える



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ゾンターク・ミラ(ぞんたあく みら/立教大学文学部キリスト教学科准教授)

 私は立教大学の招聘を受けて今年の3月31日をもって富坂キリスト教センター総主事を辞任したが、5年間もお世話になったので、お礼を申し上げるとともに総主事としての最後の出張について報告をしたい。 

 

前号の編集後記に示されたように、2009年11月30日から12月4日までソウルのアカデミーハウスにて「第2回 9条アジア宗教者会議」が開催された。20007年東京で開催された第1回の220名の参加者と比べて第2回はやや小さめの会議(90名弱)ではあったが、日本国憲法が日本国外に―しかもアジア諸国からの超宗派的な参加のもとで―取り上げられ、その第9条が「アジアの中心的価値」(core value for Asia)として提唱されたことで、画期的と言わざるを得ない。 

 私はセンターの代表を兼ねて南西ドイツ福音教会宣教局(EMS)の代表として参加したが、アジアという枠を超えた参加者として世界教会協議会(WCC)からフレリックス・ジョナサン氏やカナダ・キリスト教会(UCC)のジャグノス・ベルン氏なども参加した。会議の準備は韓国キリスト教協議会の下で行われ、韓国基督教長老教会(PROK)以外、日本キリスト教協議会、立正平和の会、日本カトリック教会とCCAの代表が準備委員会に加わっていた。主催の団体は合計10個であり、キリスト教と仏教以外、イスラム教、そして無宗教の参加者もいた中で、開会式と閉会式において諸宗教の祈りがあった。日本キリスト教協議会飯島総幹事と韓国キリスト教協議会権総幹事に続いて諸団体の挨拶があり、会議に対する期待が表明された。児玉暁洋氏(浄土真宗)は、日本が韓国を通して仏教という賜物を受け、聖徳太子による日本最初の憲法では平和がキーワードになっていたにもかかわらず、日本はアジアに対する平和的な意味での恩返しを未だにできていないと哀痛した。日本は一日も速くすべての隣国と友好的な関係が結べること、また非暴力宣言をした都市の増進を願っていると述べた。フレリックス氏は、 WCCが戦後世界に平和をもたらすために創立されたことを指摘し、開催地の韓国は、第2次世界大戦が残した最後の被害地だと述べた。 

 この日に、日本国憲法の「改正」を目指す政治界の最近の動きについて、東京大学の高橋哲哉氏と国立キュンポク大学の金昌禄氏の基調講演があった。それを受けて、平和構築のために宗教者がどうすべきかについて諸宗教の代表者に幾つかの提案がなされた。それらは、個々人の心における平和作りから非暴力宣言都市などのような構造的な平和作りまで、かなりの幅があるものであった。その中で、松浦悟郎司教(日本カトリック教会)は、第9条を守ろうとする活動によって、教会組織そのもののために新しいビションが与えられただけではなく、宗教間対話の実践も増えたと述べた。 

 翌日の午前中、会議の参加者は、ソウル都心にある仏教博物館を訪問し、植民地時代に戦略的な理由で日本側によって修復された石窟庵(ソックラム)の仏堂遺跡の歴史について学ぶことができた。展示物の中で仏道遺跡の現地を見せる二つの地図が最も印象的であった。一つは、現地を普通の方向で、つまり北を上に見せるものであったが、もう一つの地図は、南を上に、つまり方位が逆転されたものであった。そうすれば現地から日本への展望が開いてくるわけである。後者の地図は植民地時代の日本の戦略を現していることは言うまでもない。仏教博物館から会議の参加者は、慰安婦の生存者と出会い、証言を聞いた後で、彼女たちの水曜デモと合流し、日本大使館までのピース・マーチを行った。ソウル警視庁の許可をギリギリまで待っていたが、大勢の警官に囲まれて、一個の窓以外完全に戸締められた日本大使館まで歩いた。 

 午後の講演は沖縄の米軍基地問題(村椿牧師)と韓国の平澤(ピョンテク)米軍基地についての発表と討議があった。韓国における基地拡張の根拠付けとして、日本では基地を減らさなければならないと言われるが、日韓両国の発表を聞くと、そうした議論の無根が見られる。アメリカ人のフレリックス氏は、冷戦が終わった後、韓国や日本における米軍基地には存在理由が一切ないと訴えた。米国の国際政策に従う様々な「理由」が挙げられるかもしれないが、米国が望んでいるアジアにおける安全・安定は、基地なしでも実現されうるはずだと述べた。しかし、アジアにおける平和作りのため、諸国の政府が動きだすこと、あるいは基地が撤去されることを待つ必要はない。市民レベルでの活動を期待したいと付言し、2011年5月にWCCが実行する国際エキュメニカル平和会議(IEPC)への参加も募集した。 

 翌日の12月3日に、参加者が分科会に別れて会議の声明文のミッション・ステートメントの策定に取り組んだ。(センターのホームページからダウンロードできる。)また、フィリピンのアロヨ・グロリア大統領宛の手紙も出した。この手紙は、ソウル会議の直前に起こった59人の虐殺に対するフィリピン政府側の反応を要求した。 

 しかし、これらの声明文の発表によって本会議の目的は達せられたわけではない。会議中に様々な具体的な提案が出されたが、これからはそれらを取り入れた平和(教育)活動がアジア諸国の協同によって行われることが望ましい。 

 会議そのものは3日に閉会となったが、私は4日に平澤米軍基地の見学に参加することにした。1990年の龍山(ヨンサン)米軍基地の撤回決定によって、平澤基地の面積が3倍に拡張されたが、韓国政府は、住民の激しい反対を無視し、以前に計画地域にて農業に従事していた人たち強制的に移動させた。見学者の私たちは基地をバスで一周めぐり、バスを降りて基地の様子を見た5分の間だけでも戦闘機が10台弱着陸を行った。その後、平澤平和センターで平澤基地の歴史について説明を聞き、また現在基地となっている地域の村民が新しく建てている村も訪問した。そこでは、政府から受けた賠償金がなくなり、建設工事を完成できなかった家もあり、建てることができたとしても、農業用の土地がないため失業となった人の話しも聞いた。村長さんが元の村の名称を使い続けたかったのに、政府がそれを許さなかったことの悲しみを伝えてくれた。しかし、私たち外国人の見学者が一番驚いたのは、この問題に対する韓国内の無関心を知った時であった。国内のメディアが取り上げてくれない時は海外との連帯が益々重要になってくるであろう。 

 私は、ソウルにてあと2ヵ所を尋ねた。まず、センターの「国公立学校における宗教教育」研究会のメンバーでもいたイー・チュン・スンの韓国平和と人権と宗教教育研究所を尋ね、研究所が置かれている建物について興味深いニュースを聞いた。それは、植民地時代に日本式で建てられた建物であるが、 PROKは一層便利な高層ビルを建てるためにその解体を図ったらしい。それに対してイー氏は、植民地時代のシンポルとして後世のために残さなければならないと強く主張し、電気も水道もすでに止められた後でも追い出されそうになった研究所に寝泊りして異見を唱え続けた。こうした事情はメディアに知られ、新聞の議論によって建物の保存キャンペインが発足した。結果的にこの建物が保存されるようになった。 もう1ヶ所は、第三時代キリスト教研究所と当研究所が研修会のために使用しているハンベク教会である。安炳茂が設立に深くかわったハンベク教会の梁美康牧師は、VAWW-NET Japanと協力し、2001年に慰安婦問題を訴える東京裁判を主催、教科書問題などでも活躍中である。第三時代キリスト教研究所のキム・ジンホ所長は、民衆神学の今日的応用を目指す「批評的神学」の研究・研修プログラムを設立した。第三時代キリスト教研究所は、センターほどの財政的基盤はないのに、プログラム内容から言えば、何倍も充実していると実感した。1月の運営委員会宛に第三時代キリスト教研究所とセンターとの協同プログラムの企画案をすでに提出したが、その実現を願ってやまない。

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