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2010年12月 1日 (水)

「21世紀の大宣教命令とは」~一方通行から対話による相互通行の宣教論~

相賀 昇(あいが のぼる/日本基督教団田園都筑教会牧師))

 今から10年前、「ベルリン・ブランデンブルク・オーバーラウジィツ福音主義領邦教会」(EKBBO) の教会本部は、19世紀に遡る宣教本部のあった場所に移転。かつての建物もすっかりモダンに増改築された。ただ一部ゴシック様式の切妻壁が歴史保存され、そこに刻印された「行ってすべての異邦人に教え、父と子と聖霊の名によって彼らに洗礼を授けよ」という大宣教命令だけが往事を偲ばせていた。19世紀、宣教とはヨーロッパから他の地域へと出て行き、非キリスト教徒である異邦人を改宗させる、いわば一方通行の宣教だったわけである。

 しかし今日、20世紀に東西ドイツ分断の壁を克服し21世紀を迎えたEKBBOから聞こえてくるのは、宣教とはイエス・キリストによって私たちに出会う神の愛をすべての人々の理解へともたらし、信仰と洗礼へ、そして教会の交わりの中へと招き入れることである。その際、強調されるべきは、宣教とは尊敬に基づく対話、つまり他者の思想・信条を尊重しつつ聖書による自由な神の恵みの約束を指し示すことに他ならない。

 先頃ドイツからB・クラッパート教授が来訪、TCC では「現代世界の平和構築のための諸宗教間対話」と題して講演がなされ、「ユダヤ教、イスラーム教、キリスト教が、現代の社会的かつ人間的な問題が提起する挑戦に対して、共に生きかつ相互に支持しあいながら、各々の一致へと立ち返るときだけが未来を持つであろう」と訴えられた。そこでは原理主義や排他性や優越性に立脚した聖書解釈と教義理解が退けられ、もはや一方通行の宣教論は導き出されない。あくまで聖書を媒介として対話を試み、対話によって生きる、いわば相互通行を目指す。そうであれば、平和と正義の前に立ちはだかる壁がますます多様性を帯びる今日、あの大宣教命令はただ単に非寛容として退けられてはならず、むしろ正しい意味で再解釈され「行ってすべての隔ての壁を乗り越え、共に生きる世界を実現せよ」と迫ってくるのではないだろうか。

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