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2010年12月 1日 (水)

書評『宗教を考える教育』 

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菅原 伸郎(すがわら のぶお/東京医療保健大学教授)

 日本の国公立学校はなぜ、宗教を教えないのだろう。オウム真理教事件と教育基本法改定が話題だったころは議論も少し起きたが、その後も大きな展開は聞かない。日本やドイツなどの研究者たちが「宗教教育研究会」で討議した成果をまとめた本書は、そうした疑問に答えてくれるはずだ。 

  明治政府は1899年、公私立の区別なく学校から宗教を締め出した。当時のミッションスクール人気を恐れたらしい。敗戦後は私立学校に限って自由となったが、国公立学校の姿勢は基本的に変わっていない。その歴史的流れは第一章の頼住光子論文が豊富な文献で教えてくれる。 

 多様な宗教の混在する日本で宗派的教育が制限されることは当然として、普遍性のある「宗教的情操教育」についても難しいのだろうか。この分野は戦前から模索されており、現在の道徳教育でも「畏敬の念」の指導として採り入れられている。しかし、そもそも宗教的情操とは何か、「畏敬の念」は宗教の本質か、オカルトやカルトの世界と区別できるのか。そういった疑問については貝塚茂樹論文を読みたい。 

 2006年の教育基本法改定で、変化がまったくないわけでもないようだ。新法第一五条に、尊重するべき事項として「宗教に関する一般的な教養」が付け加えられたためか。磯岡哲也論文は各地の新しい実践例を報告しているが、実のところ、やや心配な場合もある。習俗や特定宗教の教義が無批判に採り入れられていないか、検証していく必要がある。    

こうした実証的な研究を読むと、改めて「宗教の何を教えるのか」と問いたくなる。宗教には多くの要素があるし、定義もさまざまである。そこで、たとえば「宗教文化教育」の導入を提唱する宗教学者もいる。文化として、知識として宗教を教えよ、というのだ。これならば、ある程度は客観性が保てるし、学校現場も扱いやすいかもしれない。  

しかし、本書の執筆者たちはそれに飽き足らなかった。その「もう一歩、深めたい」という願いは、まさに『宗教を考える教育』という書名に表れている。分かりにくい言葉だが、カルマノ・ミカエル論文は「知識の伝達ではなく、宗教の具体例を媒介にして、生徒に身近な問題として考える環境を提供すること」と説明する。自分自身で「考える」ことによってこそ、宗教は共同体への奉仕と個人の自律を育む力となるわけだ。 

 研究会の座長である鈴木範久・立教大学名誉教授は「宗教を考える教育」で取り上げたい項目として、世界の宗教、信教の自由、宗教的寛容、良い宗教と悪い宗教の区別などを挙げる。そして、終わりを「人生に大きな位置を占める宗教につき、まったく考えないで過ごすことは許されない」と結んでいる。つまり「宗教を考える教育」とは「人生を考える教育」に近いのだろう。そうならば、聖霊やアガペー、悟りや慈悲といった言葉を持ち出さないでも、だれもが持ち得る自己否定、覚醒、隣人愛などを説き、宗教へ誘う教育もありえるように思った。 

 といって、そうした深い世界を目指して、どんな教師がどんな授業で指導するのか。それを考えると、いささか暗い気持ちにもなる。私立学校で行われている「宗教科」の指導はさておき、国公立学校の教師たちは大多数が宗教について何の知識も関心もないまま、教壇に立っているからだ。そうした教員養成のお寒い現状を播本秀史論文が指摘している。

そのほか、ゾンターク・ミラ、フィルス・ドロシア両氏の論考は、日本社会における宗教のあいまいさ、学校教育における画一性や集団主義などを批判的に取り上げている。巻末には、ヨーロッパ諸国、韓国、オーストラリア、米国の、新しい宗教教育事情がそれぞれの地域の研究者によって報告されており、これも大いに参考となるだろう。 

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