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2011年6月 1日 (水)

シリーズ「ドイツから直行便で」⑪原子力発電は現代のバベルの塔か」― 「フクシマ」とドイツの原子力政策をめぐって―  

ベルリンの復活祭デモ行進―「原子力?いえ結構です」の旗を掲げてさ

相賀 昇(あいが のぼる/日本基督教団 田園都筑教会牧師)

 東日本大震災による甚大な被害、さらに高濃度の放射線災害という同時複合災害の現実に直面し、この間私たちは絶えず神様に「なぜですか」と問い続けてきた。しかし福島第一原発事故に伴う一連の危機を見る限り、私たち自身に対する神様からの問い、つまりひとが築いてきた文明のあり方、その豊かさや繁栄の本質は何かという問いの前に立たされていることもまた確かであろう。創世記にはバビロニア人が「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」(11:4)とした「バベルの塔の物語」がある。彼らは人間の能力で自然・環境を意のままにして神の高みにまで到達しようと、つまり「傲慢」になった。しかし主なる神の介入によってバビロニア人が「この町の建設をやめた」という結末、遂にはバビロニアの覇権主義が頓挫したことを告げている。現在の福島第一原発のトラブルを見るとき、あの創世記の物語ははるか遠い昔のことではなく、専門家の想定外の事態に陥って暴走しコントロール不能となり、その残骸をさらしている有様はまさに21世紀のバベルの塔ではないだろうか。そしてそのような人災を招いた原因こそ、不倒神話や安全神話を作り上げそこに安住してきた人間の傲慢ではなかったか。

ところでドイツでは10年前に社会民主党と緑の党の連立によるシュレーダー政権が、2020年頃までにすべての原発を廃止することを決めたが、メルケル現政権は去年、温暖化対策や原油価格の高騰を背景に、原発の運転期間を平均12年延長することを決めたばかりだった。 これに対しドイツ福音主義教会のニコラウス・シュナイダー評議会議長は、「原発を単純にさらに稼動させることは倫理的に責任を負い得ない。なぜなら使用済み核燃料の最終格納庫の問題は何百万年もの期間に関わる問題であり、現在もそして将来も決して解決しないだろうからだ」と連邦政府のエネルギー政策をすぐさま鋭く批判した。さらにシュナイダー議長は人為的過失によるリスクについても警告を発しつつ、再生可能なエネルギー源を供給する準備が完全に整わないとすれば、過渡的手段としてさらに石炭を使うべきだとさえ勧めていた。だがまさにそのような原子力政策をめぐる激しい論争の最中、福島第一原発事故が勃発。ドイツでは直ちに原発の廃止を求める人が70%を超え、25万人が参加するデモも行われた。3月後半に行われた3つの州議会議員選挙ではいずれも脱原発を掲げる緑の党が躍進。とりわけ58年間保守政権が続いてきた南部のバーデンヴュルテンベルク州内には4基の原発があり、原発政策が最大の争点となったが、緑の党が議席を倍増させ、ついにドイツ史上初の緑の党からの州政府首相が誕生することとなったのである。さらにメルケル首相も福島第一原発の事故を受けて、昨年提示したばかりの原発運転期間を平均12年延長する決定を3か月間凍結。3月15日には16州全ての首相や関係閣僚を集めてエネルギー政策について協議を行い、記者会見において「われわれはできるだけ早く原発を廃止して再生可能エネルギーに移行したい」と述べ、原発の稼働延長を柱とした自らの政策を転換する意向を示した。そのうえで、風力や太陽光などの再生可能エネルギーの普及に向けた議論を加速させる方針を示している。私たちは今、これまでとは異なる文明のかたち、すなわち少ない資源を分かち合い、持続可能な形で地球を子孫に残す共生の道へと転(てん)轍(てつ)するよう迫られていると思われてならない。私たちは自然・環境破壊を起こしていることが分かっているにもかかわらず、大量生産、大量消費の構造を変えられずにいる。また敵の殺戮を正当化する憎悪と報復の悪循環を分かっていながら、その連鎖をどうしても断ち切ることができずにいる。私たちは自らの力の限界を自覚して神の御前に謙虚になること、それを大震災で命を落とされた方々が示して下さったことを心に刻みつけなければならないのではないだろうか。

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